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(2)人生を決めた味の洗礼

2015.11.10 (Tue)

私の小学校、中学校時代の昭和30年代、食べるための米は田で耕作し、庭で放し飼いにした鶏の生む卵やその肉がたんぱく源、栽培する野菜や果物はビタミン源だった。そんな我が家の暮らしは、自給自足に近いものだった。
     *
 食糧難も経験しなかった。現在のようにあふれるほどの物はなくとも、違った豊かさに包まれていた気がする。

 農業は旧暦で作業するため、家族の働く背中は二十四節気に忠実に動く。自然に寄り添い、自然と結びついて暮らす知恵を学び、四季のある国に生まれた喜びを味わう基本となっている。

 その後、時代は限りあるエネルギー、石炭産業の崩壊が始まり、炭鉱の閉山が続いた。小さなヤマから潰れていき、田んぼで遊ぶ時に見慣れた豊州(ほうしゅう)炭鉱のボタ山の火とトロッコの音も消えた。

 仲良しの友達が広島や大阪へ転校していき始め、3度の食事を満足に食べられない子供が増えて、貧困児童に対し「給食」が配られた。ほかは弁当持参だったが、私の弁当は塩クジラや野菜の煮物、梅干し、高菜の油炒めが定番で、たまに入る卵焼きは妹と分けるため薄く、代わりにご飯はしっかり詰められていた。

 質素な弁当に箸をつけ始める頃、給食室から未知の食べ物のいい匂いが漂い、給食を食べている人がうらやましかった。当時、給食の内容に無知だったのである。

 その後、川崎小では弁当組にも1週間に1回、1品のおかずと2回の粉ミルク(脱脂粉乳)が配られた。当時は、敗戦国日本の子供たちの栄養補給、体力向上のため、粉ミルクが国連児童基金(ユニセフ)から支給されていた。
     *
 温かいミルクがアルミ食器の中で、たっぷりと波打っている。一口飲んで「ウェッ」ともどしそうになる。鼻をつまんで息を止めて飲むのは難しかった。私の舌はグルメなものを経験する前に、大変まずいものを幼くして味わったのだ。とても罰当たりなことだと思ってみても、「残してはいけません」と言う先生は飲めたのかしら、などと考えていたものだ。

 最高においしいものはチョコレートだった。同居していたおばの頂き物で、おしゃれな箱に並んだ1粒を口に入れてもらった時、経験のない甘さと香り、とろけた後、口の中の滞空時間が長い「美味」。父に連れられてよく見た洋画の場面で登場する「あれだ」と思った。

 この体験と母の教育方針もあり、高校では調理科学部に入り、短大は食物栄養学科へ進学した。

 チョコレートケーキを習って初めて弟の誕生日に作ってみた。バターの香りに都会の風を感じ、愛をいっぱい注いだつもりのスポンジがやたら硬かった。混ぜすぎによるたんぱく質成分「グルテン」が原因だった。弟からは「ストーンズケーキ」とからかわれ、姉の面目まるつぶれ。甘くないその後の私の苦節の日々の始まりだった。
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13:50  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事
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