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(8)食文化伝える目標自覚

2015.12.22 (Tue)

田川市鉄砲町の教室は1994年、鉱害復旧事業により更地にするとのことで、家主さんから移転を勧められた。運良くちょうど知り合いの持つビルに空きがあり、調理台とともに大移動をした。

 師範台を増やし、おしゃれな白い部屋に仕上げ、教室名も「大場クッキング」と改称した。伊田橘通り1丁目の銀天街に開いた新しい教室に心が躍った。
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 いまやシャッター街と化す銀天街だが、橘通り1丁目は活気が残る。銀行が新築され、赤村の農産物直売所、食料品店、化粧品店が連なる。教室の階下の碁会所には毎日、おじさんたちが集まってくる。

 田川伊田駅から徒歩2~3分の地は、北九州など遠方からの人たちに便利だし、地理を説明しやすい。内装費など諸経費の総額を目の前にして、もう趣味の範囲でやることではないと実感した。

 一方、通って来て下さる方々の負担にならないような月謝に設定した。スーパーや市場は自分で巡って安く仕入れた。新鮮な野菜や果物は夫とともに自家栽培を試みた。

 カルチャーセンターでハーブ講座を開く時には育苗し、その効果や料理法を会得したうえで、香りが体中に充満したような気分で臨んだ。まさに田舎の空気を都会へ送りこむ仕事だと思った。スローフードやスローな生活が話題になっていた時代にあって、難しいことは知らずとも、自分自身がその実践者だと思った。

 採れたての、みずみずしい季節野菜を料理で最高に演出しておいしさを伝えるのが自分の役目のような気がすると、レシピが思い浮かんでくる。
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 しかし、世の中の食は核家族化が進み、欧米化による肥満者の増加やファストフードの全盛、おいしいインスタント食品に惑わされる。セサミンやコラーゲン、青汁……。テレビCMは笑顔で健康食品の数々を呼びかける。

 若者たちは食べ過ぎによる栄養過多をダイエット食品で解決しようとする。今や国民の30%は糖尿病またはその予備軍と化し、医療費もパンク状態となった。新聞やテレビで目にする子供たちの凶悪事件が増え、家族や人と人との絆が希薄になるばかりだ。

 2005年、内閣府は食育基本法を施行した。知育、徳育、体育とともに、食育で広範囲に食を見直す時がきたのだ。

 料理教室は文部省(当時)認定(現・後援)の家庭料理技能検定4級と3級を教室で受験できる全国実施教室の認可を取得した。料理力向上の普及に、小さな料理教室だからできることを目指そうと考えた。

 それは生徒それぞれが、人として親や祖父母の役割を果たせるようになることだ。専門的に学びたい人には製菓師やシェフの方にお願いする実習も組み込んだ。

 私自身も調理技術指導員や調理師など食関係の国家資格を楽しみながら取得。自分の食べるごはんは自分で作れる、人として当たり前のことの普及に微力を注ぐ日々が続く。

 地方発信の食に日本料理の原点があり、消してはいけない食文化を大切に伝える新たな目標を自覚した。
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16:10  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(7)夫の料理、息子が「世界一」

2015.12.15 (Tue)

講師をしている短大の後期試験が近い。学生は勉学が仕事だが、その時代を離れて長い者が、何らかの試験を受けるとなると、とても緊張する。

 家庭料理技能検定は筆記と実技、基本応用技術があり、勉強不足で2級からの飛び級受験をした緊張の程度は、ドキドキ感や手の震え以上のものがあった。

 それだけに合格と文部大臣奨励賞の受賞の喜びには、それまでの思いや出来事がよみがえってきて、うれしさをかみしめた。
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 教室を開いた5年後、34歳の春、検診で良性の右卵巣膿腫(のうしゅ)が見つかり、田川市内の病院で手術を受けた。2週間後の退院日に左足にチアノーゼが出て発熱し、主治医に左下肢(かし)静脈血栓症だと告げられた。最近よく話題になるエコノミークラス症候群で、足の静脈に血液が滞り、小さな血の塊ができて肺や心臓、脳へ飛ぶと命にかかわると、絶対安静を言い渡された。

 周りの動きが急に騒がしくなり、重い空気は感じ取れていた。今はどんな大手術後も翌日から血栓予防のためにリハビリで動かされるが、当時、入院期間中は寝ていることが安静治癒(ちゆ)だとされていた。

 筑豊に血管外科がなく、久留米大学病院への転院、緊急手術をして左足付け根を切開し、血液の塊を流し出した。内科的には健康で体力があり、輸血もバイパス手術も不要で、回復は早かった。時折、3センチ程度の古傷が手に触れるたび、毎日病院へ通ってくれた夫、小学4年生で、寂しい思いをさせた息子に感謝を忘れない。
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 大変な心配をかけた夫が、それまでは何も家事協力をしなかったのに、息子のごはん作りを時々するようになっていた。

 カツ丼、すき焼き、ホルモン鍋と口においしい高カロリー食は息子を魅了し、授業参観日に、お父さんの家の仕事として、「はい! うちのお父さんのごはんは世界一おいしい」と発表。私の面目はつぶれ、笑いを誘った。

 しかし、料理を作れることは、老若男女の自立の条件で、功を奏したと思い、受賞を機に再びスタートラインに立ったと考えた。

 料理教室で正しく伝えたいと、東京の女子栄養大学のスクーリング(検定短期集中講座)では、陳建一さんや田村隆さん(「つきぢ田村」3代目店主)など名だたる料理人やシェフに習った。手先の技術や巧みな話術、人を引きつけて運ぶ内容の奥深さなど、見逃せない時間だった。

 各国の料理を目の前にするたび、実際の食材や背景の食文化と料理を作る人の手技を見て感じないと、人には伝わらないと思った。

 初めてのヨーロッパはフランスのパリだった。ホテルリッツとル・コルドン・ブルーの料理学校体験では、牛乳やチョコレート、バターの種類の多さでフランス菓子の誕生を知り、ドイツのビールとソーセージに乾燥した気候から生まれた深い歴史を感じた。

 その後もイタリア、ハンガリー、スリランカ、アジア各国を巡った。出かけるたびに日本人である自覚と日本料理の良さが近くに思えてくる客観性が芽生えている気がしてきた。
16:07  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(6)料理コンクール・検定挑戦

2015.12.08 (Tue)

白菜、春菊、水菜、冬野菜は濃い色合いで個性が際立つ。鍋の中でぐつぐつ煮えるさまは、目を止めているだけで語らずとも心が満たされていく気がする。重ねてユズの一滴を加えたならば、その瞬間、口中に香気が散り、冬の到来が体中にしみわたる。
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 現在、一人鍋の冷凍食品なども出回るが、鍋を囲んだ食卓は、おなかを満たすだけでなく、湯気とともに笑顔が広がり温かい。私も大家族の大土鍋で作る水炊きが好きで定番だった。息子が3歳を過ぎ、保育園入園と夫の転勤を機に、田川市の教職員住宅へ引っ越し、小ぶりの鍋を買った。

 初めてのアパート暮らしに緊張がほぐれ、ほのかな安ど感があったのは確かだったが、いずれは再び中津原へ戻ることは当然であった。高台の部屋から見える風景に、日田彦山線を蒸気機関車がもくもくと煙を上げて走る。息子が大喜びで手をたたく。かけがえのない小さな幸せを感じ、背筋の伸びる思いがした。

 子育てをしながら、相変わらず香春町の仕事を続け、地域栄養士として、各所を巡った。教職員住宅でも料理教室グループができ、親睦を深め、時々息子を預かってくれる友達もいて、大変ありがたかった。
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 30歳を目の前にした時、誰もが考えるであろう人生の区切りの今後の方向性として、栄養と料理の基本を見直し、学び直すこととした。当時は管理栄養士制度がなく、料理上手な栄養士をめざし、特徴と個性を身につけたいと考えた。

 仕事としてだけでなく、家庭でも役立ち、楽しめる挑戦として、料理コンクールに応募し、東京の女子栄養大学のスクーリング(検定短期集中講座)を受けることにした。料理コンクールはアーモンドやトマトなど企業の商品普及の一環だった。カリフォルニアやイタリアなどへの招待旅行という大賞に夢をはせるのが楽しく、レシピの案を練った。

 全国から応募が多数あるコンテストの大賞などとれるはずもなかったが、幸運にもどちらも入選し、アーモンドセットや当時まだ珍しかったイタリアントマトの詰め合わせが送られてきた。十分だった。参加して意義を味わう経験をよしと考える。だが、家族や友人には「味見」で迷惑をかけたかもしれない……。

 息子が小学校へ入学した。私は29歳で田川市鉄砲町に調理台3台、助手1人の小さな料理教室「田川クッキングルーム」を開いた。息子の通う伊田小と教員住宅の、ちょうど中間地点を選んだ。

 貸事務所を改造した教室の黒板の上に、スローガンとする「食はコミュニケーション、温かい家庭は料理から」と実母の字で掲げた。たくさんの人が集まって下さり、グルメ時代を背景に地元とのつながりを感じた。

 その後、教室を続けながら奮起して、東京の女子栄養大学で文部省(当時)認定の家庭料理技能検定試験の2級を受験。幸い合格し、重ねて文部大臣奨励賞をいただいた。「万歳!」。息が止まるほどとは、このことだ。田舎者に夢が降り注いできた。
16:05  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(5)地域の人と食通じ結びつき

2015.12.02 (Wed)

1971年、24歳で男児を出産した。長男の家長制度が重んじられ、同居の両親、姉、妹、家中が喜び、みんなで可愛がり、育てる雰囲気があった。息子はそれに応えるかのように健康で体格よく育ち、私は大いに助かっていた。

それでも、一連の主婦業は日常の平凡な仕事とはいえ、家の周囲や屋内掃除、家族7人分の食事作りなど、段取りを身につけなければ実に大変なことで、昔の女性のたくましさが身にしみていた。
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 そんな私に小さな光が降り注いで胸の内の晴れ間に出あったような感覚が起こった。先輩の保健所栄養士から、県と香春町が協賛する、栄養改善を目標とした「香春町栄養教室」の講師の話をいただいた。

 幼子のいる身だったが、私に主婦業を希望した夫、家に嫁に来たと考える姑(しゅうとめ)の承諾を得たうえで、任命を受けた。講義と調理実習を交互に行い、町社会教育課が事務局となって始動した。私は県の外郭団体「県食生活改善協会講師」に登録された。

 1年間コースで、1週間に1度、中央公民館へ通う道で、香春岳を正面にしっかりと見据え、清瀬川の流れに香春住民になったのだという自覚がわいてくる気がした。

 料理を作って楽しむことも大事だが、何をどのように食べればよいか、「自分の健康は自分で守ろう」をスローガンに、当時の厚生省は食生活を見直し、改善して、生活習慣病(当時は成人病)を予防する目的を掲げていた。

 広範囲の町民の方々が集まってくださり、定員はすぐに満たされ、いろいろな人々と知り合うよい機会となった。ほとんどが年上で、「大場さん宅の嫁さん」として、とても親しくなれたことに地域の良さがうかがえた。
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 自宅の組内の人も何人かいて、近所で知り合う前に栄養教室で出会い、何よりも心強い協力をいただいた。同じテーブルで食事をすることは、心のベールをはがし、近い間柄になれる。料理の本当のおいしさは人と人の間の空気を調味料と考え、やさしい心根で作り食べるのが「滋味」であろう。

 香春町ではその後、結婚前の若者たちの料理教室である「青年学級」も受け持ち、外で仕事をする機会が増えていった。

 目には見えない大場家の力が、私を包んでくれていたことに気づいて外から我が家を見ることもでき、自分も育てられていた。

 農林省(当時)の筑豊地区内各所の生活改良普及センター(当時)の地場農産物工夫レシピの作成にかかわり、各地の農村や林業者へのおしゃれな料理指導で田舎を巡った。

 この時、しばらく眠っていた私の中の「田舎虫」、つまり生まれ育った田原平野の土と草の匂いの記憶が騒ぎ始めた気がして体中が温かくなった。農産物や農家の人々は私と同じ空気の流れを持っていた。「よし!」と思ったら、「ポン」といくつかのメニューが頭に浮かぶ、不思議なことだった。
15:52  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事
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