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(4)姑から受け継いだ「食」

2015.11.25 (Wed)

毎日食べる家のごはんは、「生きる」ために食べている。先人たちの知恵と工夫が風土と結びつき、フード(食)となって地域に残ったものが、郷土料理、行事食、季節ごとの恵みで作る保存食だ。

 かつては生き生きと身近にあったものを過去形で語る時、現代社会の便利さや希薄になった人間関係のはざまへ大切なものを落とし込んだような影を感じる。

 高校の調理実習で「お茶を入れましょう」と言った先生の前で、急須をガスの火にかけたという生徒は、家庭ではペットボトルのお茶という生活らしい。核家族化による伝承不足以前の問題と思え、周りの大人の責任を感じるのは、私だけだろうか。

 食べ物は身体を作り、守るものであり、利便性に負けられない時もある。私は教室で常々伝えていることだが、洋服と同様、その時々に合わせて、忙しい時の時短料理、彩りで栄養バランスを得る方法などは現代に必須である。
     *
 23歳で栄養士を退職した私は、夫の実家である香春町中津原に嫁いだ。800年以上続く家で、両親は明治生まれの元教師。退職後は家族でガソリンスタンドを経営していた。

 体育教師の夫は1男6女の真ん中で一人息子だ。のんびり育った私には想像もつかぬ環境に、私の家族は「(親や兄弟との同居は)無理」のひと言だった。

 人と切磋琢磨(せっさたくま)する能力が備わる間がないうちの結婚に、現実は厳しかった。「愛があれば」という恋心は幻と消え、お菓子のような甘さは打ち砕かれる思いだった。未熟さゆえに、そう感じたのだ。

 昔は地主、祖父は村長、農地改革で多くを失ったと、姑(しゅうとめ)は古文書を広げて説明してくれた。残る8アールの田、2アールの畑、ほかに少々の山林と貸地があり、舅(しゅうと)と近所に住む長姉が携わり、偶然、私の育った空気と同じものが流れていた。
     *
 若い嫁に言葉を選びながらの教育はいま、姑の当時の年を超えてみて、やっと分かることも多い。

 「女は太陽とともに動くのよ」と教えられた時は明治女の気質を感じた。その半面、「電気釜、洗濯機、掃除機があり、薪(まき)を燃やして家事をするわけじゃなし」として「時代が違う」と心の中で反論していた。

 田舎の本家は当時、行事の度に来客が多かった。神幸の五目ずし、木の芽あえ、お盆の精進料理……。正月料理の「きんとん」は透明感を出すための「本みりん」の煮切り方や、裏ごし器の網目を斜め使いにすると口当たりの食感がなめらかになるといった具合に、家庭科の教師だった姑は、経験と理にかなった方法を教えてくれた。

 またもや、ここで魔法の手を持つ人に出会えたわけだが、同居の重みは私の体重を1年で10キロ減らし、疲れ果てていた。

 女は大きな荒波をかぶりながら、一生を終えるころ、婆(ばば)となるという誰かの言葉を思い出す。やがて「おかげさまで、ありがとう」と思える日がやってくる。それが成長というものだが、若い日には気づかずに誰もが通り過ぎる。年を重ねてみて分かることは多いものである。
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13:56  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(3)料理の知識、恋して吸収

2015.11.17 (Tue)

 私が高校3年の夏休み、家族にとっての大事件が起きた。忘れもしない8月4日、けだるい暑さの中で鳴る電話のベルに、かけ寄ると、警察からだった。オートバイの父とワゴン車が衝突し、父は病院へ運ばれたという。

 車には偶然、診療所の医師が乗り合わせていたにもかかわらず、父は右足ひざ下の切断手術を免れなかった。くしくも戦地でくるぶしに鉄砲玉が貫通した右足は、重なる因縁でひざから下を失ったが、大切な命は取り留めたのだ。手術の際は同級生が輸血に協力してくれた。

 父の入院生活は3年間に及んだ。大黒柱の働き手がいないのに、農業は何の生活の保障もない。当時の母が苦労する姿は高校生の私にもひしひしと伝わった。しかし、何の手も差し伸べられなかった。
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 小学校教師から大所帯の農家に嫁いだ母は父の入院中、家族と田畑を守った。細い身体に備わる大正女に救世の神が宿っているかのように、部材運搬機や草刈り機を使いこなした。車の運転免許証も持たず、自転車すら乗れなかった人なのに……。

 小学6年だった弟は早々に母とともに、田んぼ仕事をし、近所の人の共感を呼んでいた。60代後半だった祖母も大奮闘し、やがて父が義足をつけて退院してきた。

 どうにか苦難を乗り越えた21歳のころ、私の心の支えとなる人の存在が傍らにあった。7歳の年齢差に豊かな人生経験を感じ、何事も教えてもらった。小倉のレストランではヒレカツステーキの横にナイフとフォークが並んだ。ただただ緊張し、恥ずかしかった。

 彼は手順をやさしく、わかりやすく教えてくれた。それからも「天ぷら屋」「寿司(すし)屋」では、カウンター越しに板前さんの手元が見える場所に座り、対話から料理の知識を吸収した。エビの天ぷらの尾と一節だけ衣をつけぬ理由、巻きものの寿司飯の広げ方と両端の残し具合、キュウリの松笠切りはこの時に覚えた。

 後藤寺駅近くの平和食堂の「ホルモン鍋」を食べさせてもらった時の衝撃は忘れられない。匂いは強烈だが、味は未知のものでうまい。農家の我が家ではホルモン料理が食卓に並んだことはなかった。体育教師の彼はなぜか食に詳しかった。未熟だった私の食の知識や経験を鍛えてくれたのが、将来の夫となる彼だった。
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 120床の病院栄養士としての仕事は、治療食の献立に悩み、五右衛門風呂を思わせる回転釜は腕の筋力をポパイのようにつけた。だが、料理力は不足し、理想の白衣は汚れ、先輩の手が魔法の手に見えていた。

 時代は東京オリンピック後の高度成長期で、グループサウンズの曲が流れ、テレビでは料理番組の放送も始まった。カルチャースクールの料理教室は大盛況で、街行く人々の中に肥満者の姿を見かけるようになった。

 私も広い範囲で「食」をとらえ始め、テレビの情報番組の先駆けである食巡りのリポーターも経験した。若さをはじけさせる青春は今も心の奥で温かく残る。
13:52  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(2)人生を決めた味の洗礼

2015.11.10 (Tue)

私の小学校、中学校時代の昭和30年代、食べるための米は田で耕作し、庭で放し飼いにした鶏の生む卵やその肉がたんぱく源、栽培する野菜や果物はビタミン源だった。そんな我が家の暮らしは、自給自足に近いものだった。
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 食糧難も経験しなかった。現在のようにあふれるほどの物はなくとも、違った豊かさに包まれていた気がする。

 農業は旧暦で作業するため、家族の働く背中は二十四節気に忠実に動く。自然に寄り添い、自然と結びついて暮らす知恵を学び、四季のある国に生まれた喜びを味わう基本となっている。

 その後、時代は限りあるエネルギー、石炭産業の崩壊が始まり、炭鉱の閉山が続いた。小さなヤマから潰れていき、田んぼで遊ぶ時に見慣れた豊州(ほうしゅう)炭鉱のボタ山の火とトロッコの音も消えた。

 仲良しの友達が広島や大阪へ転校していき始め、3度の食事を満足に食べられない子供が増えて、貧困児童に対し「給食」が配られた。ほかは弁当持参だったが、私の弁当は塩クジラや野菜の煮物、梅干し、高菜の油炒めが定番で、たまに入る卵焼きは妹と分けるため薄く、代わりにご飯はしっかり詰められていた。

 質素な弁当に箸をつけ始める頃、給食室から未知の食べ物のいい匂いが漂い、給食を食べている人がうらやましかった。当時、給食の内容に無知だったのである。

 その後、川崎小では弁当組にも1週間に1回、1品のおかずと2回の粉ミルク(脱脂粉乳)が配られた。当時は、敗戦国日本の子供たちの栄養補給、体力向上のため、粉ミルクが国連児童基金(ユニセフ)から支給されていた。
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 温かいミルクがアルミ食器の中で、たっぷりと波打っている。一口飲んで「ウェッ」ともどしそうになる。鼻をつまんで息を止めて飲むのは難しかった。私の舌はグルメなものを経験する前に、大変まずいものを幼くして味わったのだ。とても罰当たりなことだと思ってみても、「残してはいけません」と言う先生は飲めたのかしら、などと考えていたものだ。

 最高においしいものはチョコレートだった。同居していたおばの頂き物で、おしゃれな箱に並んだ1粒を口に入れてもらった時、経験のない甘さと香り、とろけた後、口の中の滞空時間が長い「美味」。父に連れられてよく見た洋画の場面で登場する「あれだ」と思った。

 この体験と母の教育方針もあり、高校では調理科学部に入り、短大は食物栄養学科へ進学した。

 チョコレートケーキを習って初めて弟の誕生日に作ってみた。バターの香りに都会の風を感じ、愛をいっぱい注いだつもりのスポンジがやたら硬かった。混ぜすぎによるたんぱく質成分「グルテン」が原因だった。弟からは「ストーンズケーキ」とからかわれ、姉の面目まるつぶれ。甘くないその後の私の苦節の日々の始まりだった。
13:50  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(1)原点は農、恵みの食卓

2015.11.03 (Tue)

秋は紅葉と月が美しい。オオカミは満月の夜、月に向かってほえるらしいが、私も秋が巡り来ると、血の騒ぎを覚える。10月生まれで、年を重ねるたびに亡き両親への思いと感謝、そして田舎育ちのため、実りの収穫に期待するのだ。
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 主宰する料理教室の食材が深く濃い彩りに変わってくると、頭の中でクリや秋サバ、キノコ、かんきつ類などが舞い踊り、伝えたいレシピが浮かんでくる。ひとさまのおなかの虫を鳴かせてみたい願望は、温かい笑顔の食卓へつながることを信じて、長年続けている。

 私は、川崎町田原原方(はるかた)で140アールの農地を持つ、稲作農家の長女として生まれた。戦後のベビーブームと旧三井鉱山田川鉱業所第4坑の全盛期が重なり、子供の数は学校も近所の遊び友達も大勢いた。

 団塊世代で世の中は終戦後、敗戦からの復興に日本中が一生懸命な時代だった。戦争は知らないが、父と一緒のお風呂や牛のえさにするレンゲ草刈りのあぜ道で、父はよく悲惨さを語った。日頃の無口がうそのように言葉が口をついて出てくる。

 父は激戦地ビルマ(現ミャンマー)からの数少ない生還者だった。私の生まれる2年前まで戦場で、陸軍兵として戦い、死への恐怖と飢餓という地獄のような体験をした。仲間を失い、自分は生きて帰っても苦悩が続き、重い記憶の塊を抱えていたからだと思う。

 そんな戦争体験から「生きる」ことは食べることとして、また、13人となった大家族の長として、強く厳しく懸命に働き、常に凜(りん)としていた。

 屋敷内に祖父が植えていた梅、グミ、ミカンに加えて、私の誕生記念樹に富有柿4本、妹はブドウ、待ちかねた男の子の弟の時は、ポポーという香りの強いバナナに似た甘みの南国フルーツだった。

 戦地で味わったという珍しい果物の苗や種を、育苗会社から取り寄せをして、みんなに食べさせ楽しんでいるように見えた。

   *

 米や野菜はいかにして反当たりの収穫量を増やし、味が良くなるか、肥料や土壌の研究をしていた。

 県の出先機関、農業改良普及センターの指導員や農協の方々が我が家に出入りしていた。父と一番仲の良い中元寺のおじさんは、農園を経営する京都大卒の知識人で、やさしく、いつもスイカ、梨などたくさんいただいた。

 おかげで13人の大家族の食卓は、農の恵みが多く並び、母と祖母は農作業の後も忙しく台所に立っていた。

 現在、大型商業施設が立ち並ぶ田原平野では米の裏作に三池高菜の栽培が盛んだった。炭鉱労働者たちがその漬物や「高菜炒(い)り」という高菜漬けの油炒めを好んで食べたため、消費が拡大したのだ。ご飯が何杯も進み、素朴な常備菜になる。

 祖母は唐辛子をピリッときかせ、母はカツオ節やゴマを入れて甘い味に、同居していたおばは、生高菜をゆで、冷水に浸してあくを抜き、2~3センチに切って絞り、黄身酢(きみず)あえにした。鼻にツンときて子供心に少し大人になった気がした。


   
13:42  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事
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