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(10)巣立つ人、応援続けたい

2016.01.19 (Tue)

 夜間部の料理教室からの帰宅は遅くなり、月も星もすでに高くなっている。冬の中津原の夜空は、空気が澄んで自然のプラネタリウムだ。星がはっきりと輝いて美しい。

 放射冷却で「明日朝は霜が降り、日中は晴れるな」と、にわか気象予報士の気分で見上げる星空は広い。星を背負っての帰宅はずいぶん長くなった。
     *
 この冷え込みがあるから、内陸部の筑豊は白菜、大根、ホウレンソウなど冬野菜の甘みとうまみが増し、おいしく育つ。大寒の今、ブリ大根、白菜とカキのチャウダー、茎の赤い冬ホウレンソウのゴマあえなど、簡単な料理で十分身体は温まる。

 「温かい家庭は料理から。食で健康に」との願いで始めた「大場クッキング」も、今年で39年目を迎える。家庭で手軽に作れ、食べておいしい、季節感があるもののレシピを工夫し、数多く発信している。

 食生活の多様化と、料理を作らなくなっている現代社会で「手作り」を強要するものではない。忙しい時の早作り法や、スーパーで食材を買う時の目ききや選び方が、料理を作れると上手になる。利口な生活者として常に自身のアンテナで情報をキャッチできれば、楽しみは大いに増えると言える。

 有名レストランのミシュランガイドの星の数や各地のB級グルメ大会の順位などに興味を持ち、たくさん押し寄せる人のにぎわいは、庶民的な話題として平和の象徴のようなものだ。
     *
 食の楽しみには精神が安らぐ作用もある。2011年、料理教室の生徒や修了生で「おむすびの会」を誕生させた。世代を超えてコミュニケーション能力と絆を深めることと、スローな暮らしと食をすすめる会だ。

 1年に1~2度、自宅のモッコウバラとアケビの木の下のテーブルに、1人1品の料理を持ち寄り、料理説明をする。「おにぎり」は必ずみんなで作るが、会の名はご縁の意味の「おむすび」だ。庭から香春岳を眺めながらの野外の会になる。大きく口を開けてほおばる皆の顔は、日頃の疲れを吹き飛ばしてくれ、続けてきて良かったと思える瞬間でもある。

 今年5月の会から息子夫婦も加わるかも知れない。嫁の陽子は昨年、調理師免許と家庭料理技能検定4級に合格した。大阪・北新地の老舗料亭に勤務していて、ミシュランの星を持つ板前さんに付いている。

 芸術学部出身で、専門ではない料理や栄養に興味を持った日本的女性だ。今どき珍しく、茶道は小学生の時から親しみ、着物好きで人様の着付けもできる。

 縁とは不思議なもの、将来は自分なりに展開させ、前進すればよいと願う。夫も家庭料理技能検定4級を定年退職時に取得した。我が家は息子を除く全員が共通の資格を取っている。

 筑豊・田川の地に各地から人が集まって下さる。小さくささやかな料理教室は、食卓からの愛を育み、巣立っていく人々を大切に応援する場として、これからも続けていきたいと思っている。支えて下さった方々に感謝します。ご愛読ありがとうございました。

 <完>
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16:15  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(9)大切にしたい「家庭の味」

2016.01.13 (Wed)

 久しぶりの冬の日だまりの中、物干しざおに干した、帰省していた息子のパーカが風に揺れている。木綿で3Lの息子の服は乾きにくく、1枚残して帰った。我が家の洗濯機では2枚が許容限度のうえ、パーカは重いので干しにくい。嫁が毎日、巨漢の息子の洗濯物を処理していると思ったら、感謝するばかりだ。

 松の内を過ぎて、やっと新年を自覚している。年末から帰省してくる若家族を迎える両親がじわっと感じるけだるさは「来てうれし、帰ってうれし」の幸せ疲れだ。もし孫連れならば、なおさらだろう。これも昔、親から同じようにしてもらったことで人生は順送りに繰り返す。

 子供はいつしか親となり、嫁は姑(しゅうとめ)となる。時代背景も大いにあるが、その時がきて人の心がわかるというものだ。年を重ねるのも悪くない。今年は息子のダイエットに嫁はがんばると言った。ほほえましいと思った。
     *
 食育基本法の施行後、私は忙しくなった。学校、会社、団体などが食育を意識して組み込んだ授業やイベントの開催が多くなっていき、職域が広くなった。

 田川だけでなく、野菜のソムリエの講師では、九州各県を巡り、講義の終わった後には市場や郷土料理を見て味わい、記録した。

 スピード、利便性、効率化を追い求める社会で育った世代が本当に味わうことを知らないまま大人になった結果、「家庭の味」「家のごはん」が危うくなっている。

 子供時代に味覚体験を積み重ね、味わう力も、舌にいろんな刺激を与え、脳に送られて五感で判断する力が豊かな心をも生む。そして、それが食材から農業や漁業への関心を育てるかもしれないのだ。

 北九州市での仕事の一つは子供料理王選手権大会で、昨年10月に15回目を終えた。北九州市と同市中央卸売市場協会、小学校校長会、調理師連合会などが主催する。初回から審査委員長を務めさせていただき、テーマを決定する役目を仰せつかっている。

 第1回出場の子供たちは20代後半のはずで、いま現在どのような食生活をしているのか、気になるところである。レシピ内容についての質問にも近ごろは考えさせられる。材料表では「少々は何グラムですか」「ひたひたの水加減とは何リットルですか」。作り方では、「落としぶた」や「ザルにうちあげる」「煮含める」の意味など……。
     *
 学校で家庭科は普通科目に比べて進学に関係がなく、軽視され、家庭での料理経験が皆無での入校は、包丁で手を切りかねない、ゼロからのスタートだ。火を使い、鍋の中を気遣いながら、香りや型を確かめ味を仕上げていく。若者たちの中にはスマホの中のゲームのように料理を考える人もいる。五感で作り上げていく中での「塩梅(あんばい)」を伝えるのが難しい。

 日本国内の食が混乱している中、2013年に和食はユネスコ世界無形文化遺産に登録された。登録理由を目にして、日本人が自分の食卓を見直す時期への贈り物だと思った。
16:12  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(8)食文化伝える目標自覚

2015.12.22 (Tue)

田川市鉄砲町の教室は1994年、鉱害復旧事業により更地にするとのことで、家主さんから移転を勧められた。運良くちょうど知り合いの持つビルに空きがあり、調理台とともに大移動をした。

 師範台を増やし、おしゃれな白い部屋に仕上げ、教室名も「大場クッキング」と改称した。伊田橘通り1丁目の銀天街に開いた新しい教室に心が躍った。
     *
 いまやシャッター街と化す銀天街だが、橘通り1丁目は活気が残る。銀行が新築され、赤村の農産物直売所、食料品店、化粧品店が連なる。教室の階下の碁会所には毎日、おじさんたちが集まってくる。

 田川伊田駅から徒歩2~3分の地は、北九州など遠方からの人たちに便利だし、地理を説明しやすい。内装費など諸経費の総額を目の前にして、もう趣味の範囲でやることではないと実感した。

 一方、通って来て下さる方々の負担にならないような月謝に設定した。スーパーや市場は自分で巡って安く仕入れた。新鮮な野菜や果物は夫とともに自家栽培を試みた。

 カルチャーセンターでハーブ講座を開く時には育苗し、その効果や料理法を会得したうえで、香りが体中に充満したような気分で臨んだ。まさに田舎の空気を都会へ送りこむ仕事だと思った。スローフードやスローな生活が話題になっていた時代にあって、難しいことは知らずとも、自分自身がその実践者だと思った。

 採れたての、みずみずしい季節野菜を料理で最高に演出しておいしさを伝えるのが自分の役目のような気がすると、レシピが思い浮かんでくる。
     *
 しかし、世の中の食は核家族化が進み、欧米化による肥満者の増加やファストフードの全盛、おいしいインスタント食品に惑わされる。セサミンやコラーゲン、青汁……。テレビCMは笑顔で健康食品の数々を呼びかける。

 若者たちは食べ過ぎによる栄養過多をダイエット食品で解決しようとする。今や国民の30%は糖尿病またはその予備軍と化し、医療費もパンク状態となった。新聞やテレビで目にする子供たちの凶悪事件が増え、家族や人と人との絆が希薄になるばかりだ。

 2005年、内閣府は食育基本法を施行した。知育、徳育、体育とともに、食育で広範囲に食を見直す時がきたのだ。

 料理教室は文部省(当時)認定(現・後援)の家庭料理技能検定4級と3級を教室で受験できる全国実施教室の認可を取得した。料理力向上の普及に、小さな料理教室だからできることを目指そうと考えた。

 それは生徒それぞれが、人として親や祖父母の役割を果たせるようになることだ。専門的に学びたい人には製菓師やシェフの方にお願いする実習も組み込んだ。

 私自身も調理技術指導員や調理師など食関係の国家資格を楽しみながら取得。自分の食べるごはんは自分で作れる、人として当たり前のことの普及に微力を注ぐ日々が続く。

 地方発信の食に日本料理の原点があり、消してはいけない食文化を大切に伝える新たな目標を自覚した。
16:10  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(7)夫の料理、息子が「世界一」

2015.12.15 (Tue)

講師をしている短大の後期試験が近い。学生は勉学が仕事だが、その時代を離れて長い者が、何らかの試験を受けるとなると、とても緊張する。

 家庭料理技能検定は筆記と実技、基本応用技術があり、勉強不足で2級からの飛び級受験をした緊張の程度は、ドキドキ感や手の震え以上のものがあった。

 それだけに合格と文部大臣奨励賞の受賞の喜びには、それまでの思いや出来事がよみがえってきて、うれしさをかみしめた。
    *
 教室を開いた5年後、34歳の春、検診で良性の右卵巣膿腫(のうしゅ)が見つかり、田川市内の病院で手術を受けた。2週間後の退院日に左足にチアノーゼが出て発熱し、主治医に左下肢(かし)静脈血栓症だと告げられた。最近よく話題になるエコノミークラス症候群で、足の静脈に血液が滞り、小さな血の塊ができて肺や心臓、脳へ飛ぶと命にかかわると、絶対安静を言い渡された。

 周りの動きが急に騒がしくなり、重い空気は感じ取れていた。今はどんな大手術後も翌日から血栓予防のためにリハビリで動かされるが、当時、入院期間中は寝ていることが安静治癒(ちゆ)だとされていた。

 筑豊に血管外科がなく、久留米大学病院への転院、緊急手術をして左足付け根を切開し、血液の塊を流し出した。内科的には健康で体力があり、輸血もバイパス手術も不要で、回復は早かった。時折、3センチ程度の古傷が手に触れるたび、毎日病院へ通ってくれた夫、小学4年生で、寂しい思いをさせた息子に感謝を忘れない。
    *
 大変な心配をかけた夫が、それまでは何も家事協力をしなかったのに、息子のごはん作りを時々するようになっていた。

 カツ丼、すき焼き、ホルモン鍋と口においしい高カロリー食は息子を魅了し、授業参観日に、お父さんの家の仕事として、「はい! うちのお父さんのごはんは世界一おいしい」と発表。私の面目はつぶれ、笑いを誘った。

 しかし、料理を作れることは、老若男女の自立の条件で、功を奏したと思い、受賞を機に再びスタートラインに立ったと考えた。

 料理教室で正しく伝えたいと、東京の女子栄養大学のスクーリング(検定短期集中講座)では、陳建一さんや田村隆さん(「つきぢ田村」3代目店主)など名だたる料理人やシェフに習った。手先の技術や巧みな話術、人を引きつけて運ぶ内容の奥深さなど、見逃せない時間だった。

 各国の料理を目の前にするたび、実際の食材や背景の食文化と料理を作る人の手技を見て感じないと、人には伝わらないと思った。

 初めてのヨーロッパはフランスのパリだった。ホテルリッツとル・コルドン・ブルーの料理学校体験では、牛乳やチョコレート、バターの種類の多さでフランス菓子の誕生を知り、ドイツのビールとソーセージに乾燥した気候から生まれた深い歴史を感じた。

 その後もイタリア、ハンガリー、スリランカ、アジア各国を巡った。出かけるたびに日本人である自覚と日本料理の良さが近くに思えてくる客観性が芽生えている気がしてきた。
16:07  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(6)料理コンクール・検定挑戦

2015.12.08 (Tue)

白菜、春菊、水菜、冬野菜は濃い色合いで個性が際立つ。鍋の中でぐつぐつ煮えるさまは、目を止めているだけで語らずとも心が満たされていく気がする。重ねてユズの一滴を加えたならば、その瞬間、口中に香気が散り、冬の到来が体中にしみわたる。
     *
 現在、一人鍋の冷凍食品なども出回るが、鍋を囲んだ食卓は、おなかを満たすだけでなく、湯気とともに笑顔が広がり温かい。私も大家族の大土鍋で作る水炊きが好きで定番だった。息子が3歳を過ぎ、保育園入園と夫の転勤を機に、田川市の教職員住宅へ引っ越し、小ぶりの鍋を買った。

 初めてのアパート暮らしに緊張がほぐれ、ほのかな安ど感があったのは確かだったが、いずれは再び中津原へ戻ることは当然であった。高台の部屋から見える風景に、日田彦山線を蒸気機関車がもくもくと煙を上げて走る。息子が大喜びで手をたたく。かけがえのない小さな幸せを感じ、背筋の伸びる思いがした。

 子育てをしながら、相変わらず香春町の仕事を続け、地域栄養士として、各所を巡った。教職員住宅でも料理教室グループができ、親睦を深め、時々息子を預かってくれる友達もいて、大変ありがたかった。
     *
 30歳を目の前にした時、誰もが考えるであろう人生の区切りの今後の方向性として、栄養と料理の基本を見直し、学び直すこととした。当時は管理栄養士制度がなく、料理上手な栄養士をめざし、特徴と個性を身につけたいと考えた。

 仕事としてだけでなく、家庭でも役立ち、楽しめる挑戦として、料理コンクールに応募し、東京の女子栄養大学のスクーリング(検定短期集中講座)を受けることにした。料理コンクールはアーモンドやトマトなど企業の商品普及の一環だった。カリフォルニアやイタリアなどへの招待旅行という大賞に夢をはせるのが楽しく、レシピの案を練った。

 全国から応募が多数あるコンテストの大賞などとれるはずもなかったが、幸運にもどちらも入選し、アーモンドセットや当時まだ珍しかったイタリアントマトの詰め合わせが送られてきた。十分だった。参加して意義を味わう経験をよしと考える。だが、家族や友人には「味見」で迷惑をかけたかもしれない……。

 息子が小学校へ入学した。私は29歳で田川市鉄砲町に調理台3台、助手1人の小さな料理教室「田川クッキングルーム」を開いた。息子の通う伊田小と教員住宅の、ちょうど中間地点を選んだ。

 貸事務所を改造した教室の黒板の上に、スローガンとする「食はコミュニケーション、温かい家庭は料理から」と実母の字で掲げた。たくさんの人が集まって下さり、グルメ時代を背景に地元とのつながりを感じた。

 その後、教室を続けながら奮起して、東京の女子栄養大学で文部省(当時)認定の家庭料理技能検定試験の2級を受験。幸い合格し、重ねて文部大臣奨励賞をいただいた。「万歳!」。息が止まるほどとは、このことだ。田舎者に夢が降り注いできた。
16:05  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(5)地域の人と食通じ結びつき

2015.12.02 (Wed)

1971年、24歳で男児を出産した。長男の家長制度が重んじられ、同居の両親、姉、妹、家中が喜び、みんなで可愛がり、育てる雰囲気があった。息子はそれに応えるかのように健康で体格よく育ち、私は大いに助かっていた。

それでも、一連の主婦業は日常の平凡な仕事とはいえ、家の周囲や屋内掃除、家族7人分の食事作りなど、段取りを身につけなければ実に大変なことで、昔の女性のたくましさが身にしみていた。
     *
 そんな私に小さな光が降り注いで胸の内の晴れ間に出あったような感覚が起こった。先輩の保健所栄養士から、県と香春町が協賛する、栄養改善を目標とした「香春町栄養教室」の講師の話をいただいた。

 幼子のいる身だったが、私に主婦業を希望した夫、家に嫁に来たと考える姑(しゅうとめ)の承諾を得たうえで、任命を受けた。講義と調理実習を交互に行い、町社会教育課が事務局となって始動した。私は県の外郭団体「県食生活改善協会講師」に登録された。

 1年間コースで、1週間に1度、中央公民館へ通う道で、香春岳を正面にしっかりと見据え、清瀬川の流れに香春住民になったのだという自覚がわいてくる気がした。

 料理を作って楽しむことも大事だが、何をどのように食べればよいか、「自分の健康は自分で守ろう」をスローガンに、当時の厚生省は食生活を見直し、改善して、生活習慣病(当時は成人病)を予防する目的を掲げていた。

 広範囲の町民の方々が集まってくださり、定員はすぐに満たされ、いろいろな人々と知り合うよい機会となった。ほとんどが年上で、「大場さん宅の嫁さん」として、とても親しくなれたことに地域の良さがうかがえた。
     *
 自宅の組内の人も何人かいて、近所で知り合う前に栄養教室で出会い、何よりも心強い協力をいただいた。同じテーブルで食事をすることは、心のベールをはがし、近い間柄になれる。料理の本当のおいしさは人と人の間の空気を調味料と考え、やさしい心根で作り食べるのが「滋味」であろう。

 香春町ではその後、結婚前の若者たちの料理教室である「青年学級」も受け持ち、外で仕事をする機会が増えていった。

 目には見えない大場家の力が、私を包んでくれていたことに気づいて外から我が家を見ることもでき、自分も育てられていた。

 農林省(当時)の筑豊地区内各所の生活改良普及センター(当時)の地場農産物工夫レシピの作成にかかわり、各地の農村や林業者へのおしゃれな料理指導で田舎を巡った。

 この時、しばらく眠っていた私の中の「田舎虫」、つまり生まれ育った田原平野の土と草の匂いの記憶が騒ぎ始めた気がして体中が温かくなった。農産物や農家の人々は私と同じ空気の流れを持っていた。「よし!」と思ったら、「ポン」といくつかのメニューが頭に浮かぶ、不思議なことだった。
15:52  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(4)姑から受け継いだ「食」

2015.11.25 (Wed)

毎日食べる家のごはんは、「生きる」ために食べている。先人たちの知恵と工夫が風土と結びつき、フード(食)となって地域に残ったものが、郷土料理、行事食、季節ごとの恵みで作る保存食だ。

 かつては生き生きと身近にあったものを過去形で語る時、現代社会の便利さや希薄になった人間関係のはざまへ大切なものを落とし込んだような影を感じる。

 高校の調理実習で「お茶を入れましょう」と言った先生の前で、急須をガスの火にかけたという生徒は、家庭ではペットボトルのお茶という生活らしい。核家族化による伝承不足以前の問題と思え、周りの大人の責任を感じるのは、私だけだろうか。

 食べ物は身体を作り、守るものであり、利便性に負けられない時もある。私は教室で常々伝えていることだが、洋服と同様、その時々に合わせて、忙しい時の時短料理、彩りで栄養バランスを得る方法などは現代に必須である。
     *
 23歳で栄養士を退職した私は、夫の実家である香春町中津原に嫁いだ。800年以上続く家で、両親は明治生まれの元教師。退職後は家族でガソリンスタンドを経営していた。

 体育教師の夫は1男6女の真ん中で一人息子だ。のんびり育った私には想像もつかぬ環境に、私の家族は「(親や兄弟との同居は)無理」のひと言だった。

 人と切磋琢磨(せっさたくま)する能力が備わる間がないうちの結婚に、現実は厳しかった。「愛があれば」という恋心は幻と消え、お菓子のような甘さは打ち砕かれる思いだった。未熟さゆえに、そう感じたのだ。

 昔は地主、祖父は村長、農地改革で多くを失ったと、姑(しゅうとめ)は古文書を広げて説明してくれた。残る8アールの田、2アールの畑、ほかに少々の山林と貸地があり、舅(しゅうと)と近所に住む長姉が携わり、偶然、私の育った空気と同じものが流れていた。
     *
 若い嫁に言葉を選びながらの教育はいま、姑の当時の年を超えてみて、やっと分かることも多い。

 「女は太陽とともに動くのよ」と教えられた時は明治女の気質を感じた。その半面、「電気釜、洗濯機、掃除機があり、薪(まき)を燃やして家事をするわけじゃなし」として「時代が違う」と心の中で反論していた。

 田舎の本家は当時、行事の度に来客が多かった。神幸の五目ずし、木の芽あえ、お盆の精進料理……。正月料理の「きんとん」は透明感を出すための「本みりん」の煮切り方や、裏ごし器の網目を斜め使いにすると口当たりの食感がなめらかになるといった具合に、家庭科の教師だった姑は、経験と理にかなった方法を教えてくれた。

 またもや、ここで魔法の手を持つ人に出会えたわけだが、同居の重みは私の体重を1年で10キロ減らし、疲れ果てていた。

 女は大きな荒波をかぶりながら、一生を終えるころ、婆(ばば)となるという誰かの言葉を思い出す。やがて「おかげさまで、ありがとう」と思える日がやってくる。それが成長というものだが、若い日には気づかずに誰もが通り過ぎる。年を重ねてみて分かることは多いものである。
13:56  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(3)料理の知識、恋して吸収

2015.11.17 (Tue)

 私が高校3年の夏休み、家族にとっての大事件が起きた。忘れもしない8月4日、けだるい暑さの中で鳴る電話のベルに、かけ寄ると、警察からだった。オートバイの父とワゴン車が衝突し、父は病院へ運ばれたという。

 車には偶然、診療所の医師が乗り合わせていたにもかかわらず、父は右足ひざ下の切断手術を免れなかった。くしくも戦地でくるぶしに鉄砲玉が貫通した右足は、重なる因縁でひざから下を失ったが、大切な命は取り留めたのだ。手術の際は同級生が輸血に協力してくれた。

 父の入院生活は3年間に及んだ。大黒柱の働き手がいないのに、農業は何の生活の保障もない。当時の母が苦労する姿は高校生の私にもひしひしと伝わった。しかし、何の手も差し伸べられなかった。
     *
 小学校教師から大所帯の農家に嫁いだ母は父の入院中、家族と田畑を守った。細い身体に備わる大正女に救世の神が宿っているかのように、部材運搬機や草刈り機を使いこなした。車の運転免許証も持たず、自転車すら乗れなかった人なのに……。

 小学6年だった弟は早々に母とともに、田んぼ仕事をし、近所の人の共感を呼んでいた。60代後半だった祖母も大奮闘し、やがて父が義足をつけて退院してきた。

 どうにか苦難を乗り越えた21歳のころ、私の心の支えとなる人の存在が傍らにあった。7歳の年齢差に豊かな人生経験を感じ、何事も教えてもらった。小倉のレストランではヒレカツステーキの横にナイフとフォークが並んだ。ただただ緊張し、恥ずかしかった。

 彼は手順をやさしく、わかりやすく教えてくれた。それからも「天ぷら屋」「寿司(すし)屋」では、カウンター越しに板前さんの手元が見える場所に座り、対話から料理の知識を吸収した。エビの天ぷらの尾と一節だけ衣をつけぬ理由、巻きものの寿司飯の広げ方と両端の残し具合、キュウリの松笠切りはこの時に覚えた。

 後藤寺駅近くの平和食堂の「ホルモン鍋」を食べさせてもらった時の衝撃は忘れられない。匂いは強烈だが、味は未知のものでうまい。農家の我が家ではホルモン料理が食卓に並んだことはなかった。体育教師の彼はなぜか食に詳しかった。未熟だった私の食の知識や経験を鍛えてくれたのが、将来の夫となる彼だった。
     *
 120床の病院栄養士としての仕事は、治療食の献立に悩み、五右衛門風呂を思わせる回転釜は腕の筋力をポパイのようにつけた。だが、料理力は不足し、理想の白衣は汚れ、先輩の手が魔法の手に見えていた。

 時代は東京オリンピック後の高度成長期で、グループサウンズの曲が流れ、テレビでは料理番組の放送も始まった。カルチャースクールの料理教室は大盛況で、街行く人々の中に肥満者の姿を見かけるようになった。

 私も広い範囲で「食」をとらえ始め、テレビの情報番組の先駆けである食巡りのリポーターも経験した。若さをはじけさせる青春は今も心の奥で温かく残る。
13:52  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(2)人生を決めた味の洗礼

2015.11.10 (Tue)

私の小学校、中学校時代の昭和30年代、食べるための米は田で耕作し、庭で放し飼いにした鶏の生む卵やその肉がたんぱく源、栽培する野菜や果物はビタミン源だった。そんな我が家の暮らしは、自給自足に近いものだった。
     *
 食糧難も経験しなかった。現在のようにあふれるほどの物はなくとも、違った豊かさに包まれていた気がする。

 農業は旧暦で作業するため、家族の働く背中は二十四節気に忠実に動く。自然に寄り添い、自然と結びついて暮らす知恵を学び、四季のある国に生まれた喜びを味わう基本となっている。

 その後、時代は限りあるエネルギー、石炭産業の崩壊が始まり、炭鉱の閉山が続いた。小さなヤマから潰れていき、田んぼで遊ぶ時に見慣れた豊州(ほうしゅう)炭鉱のボタ山の火とトロッコの音も消えた。

 仲良しの友達が広島や大阪へ転校していき始め、3度の食事を満足に食べられない子供が増えて、貧困児童に対し「給食」が配られた。ほかは弁当持参だったが、私の弁当は塩クジラや野菜の煮物、梅干し、高菜の油炒めが定番で、たまに入る卵焼きは妹と分けるため薄く、代わりにご飯はしっかり詰められていた。

 質素な弁当に箸をつけ始める頃、給食室から未知の食べ物のいい匂いが漂い、給食を食べている人がうらやましかった。当時、給食の内容に無知だったのである。

 その後、川崎小では弁当組にも1週間に1回、1品のおかずと2回の粉ミルク(脱脂粉乳)が配られた。当時は、敗戦国日本の子供たちの栄養補給、体力向上のため、粉ミルクが国連児童基金(ユニセフ)から支給されていた。
     *
 温かいミルクがアルミ食器の中で、たっぷりと波打っている。一口飲んで「ウェッ」ともどしそうになる。鼻をつまんで息を止めて飲むのは難しかった。私の舌はグルメなものを経験する前に、大変まずいものを幼くして味わったのだ。とても罰当たりなことだと思ってみても、「残してはいけません」と言う先生は飲めたのかしら、などと考えていたものだ。

 最高においしいものはチョコレートだった。同居していたおばの頂き物で、おしゃれな箱に並んだ1粒を口に入れてもらった時、経験のない甘さと香り、とろけた後、口の中の滞空時間が長い「美味」。父に連れられてよく見た洋画の場面で登場する「あれだ」と思った。

 この体験と母の教育方針もあり、高校では調理科学部に入り、短大は食物栄養学科へ進学した。

 チョコレートケーキを習って初めて弟の誕生日に作ってみた。バターの香りに都会の風を感じ、愛をいっぱい注いだつもりのスポンジがやたら硬かった。混ぜすぎによるたんぱく質成分「グルテン」が原因だった。弟からは「ストーンズケーキ」とからかわれ、姉の面目まるつぶれ。甘くないその後の私の苦節の日々の始まりだった。
13:50  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事

(1)原点は農、恵みの食卓

2015.11.03 (Tue)

秋は紅葉と月が美しい。オオカミは満月の夜、月に向かってほえるらしいが、私も秋が巡り来ると、血の騒ぎを覚える。10月生まれで、年を重ねるたびに亡き両親への思いと感謝、そして田舎育ちのため、実りの収穫に期待するのだ。
  *
 主宰する料理教室の食材が深く濃い彩りに変わってくると、頭の中でクリや秋サバ、キノコ、かんきつ類などが舞い踊り、伝えたいレシピが浮かんでくる。ひとさまのおなかの虫を鳴かせてみたい願望は、温かい笑顔の食卓へつながることを信じて、長年続けている。

 私は、川崎町田原原方(はるかた)で140アールの農地を持つ、稲作農家の長女として生まれた。戦後のベビーブームと旧三井鉱山田川鉱業所第4坑の全盛期が重なり、子供の数は学校も近所の遊び友達も大勢いた。

 団塊世代で世の中は終戦後、敗戦からの復興に日本中が一生懸命な時代だった。戦争は知らないが、父と一緒のお風呂や牛のえさにするレンゲ草刈りのあぜ道で、父はよく悲惨さを語った。日頃の無口がうそのように言葉が口をついて出てくる。

 父は激戦地ビルマ(現ミャンマー)からの数少ない生還者だった。私の生まれる2年前まで戦場で、陸軍兵として戦い、死への恐怖と飢餓という地獄のような体験をした。仲間を失い、自分は生きて帰っても苦悩が続き、重い記憶の塊を抱えていたからだと思う。

 そんな戦争体験から「生きる」ことは食べることとして、また、13人となった大家族の長として、強く厳しく懸命に働き、常に凜(りん)としていた。

 屋敷内に祖父が植えていた梅、グミ、ミカンに加えて、私の誕生記念樹に富有柿4本、妹はブドウ、待ちかねた男の子の弟の時は、ポポーという香りの強いバナナに似た甘みの南国フルーツだった。

 戦地で味わったという珍しい果物の苗や種を、育苗会社から取り寄せをして、みんなに食べさせ楽しんでいるように見えた。

   *

 米や野菜はいかにして反当たりの収穫量を増やし、味が良くなるか、肥料や土壌の研究をしていた。

 県の出先機関、農業改良普及センターの指導員や農協の方々が我が家に出入りしていた。父と一番仲の良い中元寺のおじさんは、農園を経営する京都大卒の知識人で、やさしく、いつもスイカ、梨などたくさんいただいた。

 おかげで13人の大家族の食卓は、農の恵みが多く並び、母と祖母は農作業の後も忙しく台所に立っていた。

 現在、大型商業施設が立ち並ぶ田原平野では米の裏作に三池高菜の栽培が盛んだった。炭鉱労働者たちがその漬物や「高菜炒(い)り」という高菜漬けの油炒めを好んで食べたため、消費が拡大したのだ。ご飯が何杯も進み、素朴な常備菜になる。

 祖母は唐辛子をピリッときかせ、母はカツオ節やゴマを入れて甘い味に、同居していたおばは、生高菜をゆで、冷水に浸してあくを抜き、2~3センチに切って絞り、黄身酢(きみず)あえにした。鼻にツンときて子供心に少し大人になった気がした。


   
13:42  |  朝日新聞筑豊さんぽ道連載記事
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